ありがとね  2006/10/10


「綺麗よね、赤くて」
葉子の視線は手首に向けられていた。
見届けると約束していた一郎だったが、すぐ台所に駆け込む羽目になった。
「やっぱり男ってだらしないんだから」
葉子の声を背中に聞いた一郎だったが、すぐまた葉子に呼ばれて葉子のもとに戻る。
「ほら、真っ赤になるの、早いでしょ」
葉子が用意していた桶に手を入れると、その水が、見る間に真っ赤に染まっていく。
不思議と一郎は、この光景には吐き気も何ももよおさなかった。
「結構痛いんだから、最期までしっかり見てよね」
葉子の言葉が、徐々にではあるが、か細くなっていくのが感じられる。
それも当然だろう、真っ赤になるには静脈では駄目だから。
葉子に決死の覚悟のような重いものがあったかどうかは、聞いても教えてくれなさそうだった。
ただ、事実このまま見守っていれば、葉子は彼岸の人となる。

  *

「私、切るから。今度は本気。見届けてくれない?」
大学のキャンパス、心理学の授業を受けていた最中に、後ろに座っていた葉子が、こそこそとそんなことを言った。
一郎は、葉子がリストカットを何度もしているのは知っていた。いや、葉子が隠さないものだから、皆分かっていただろう。
だが、特に親しくもなく、話も特にするわけでもない葉子が何故自分を選んだのかは、分からないままだった。
分からないまま、言われた日時に言われたアパートの呼び鈴を押した。
「わぁありがとう、来てくれないかと思ってドキドキしちゃった」
普通の女の子であった。もとい、一郎は女性と付き合ったことがない故に、普通「らしい」女の子と感じた。
「入って、入って、今飲み物……何がいい? ジュース? お茶? それともお水?」
一郎は何となくお水を頼んだ。

  *

「なんだか目の前がぼーっとしてきたよ……そろそろかな……?」
一郎はただ、分からない、と言って様子を見続けた。
ただ、桶の水は追加の赤い水が入ってあふれ出しそうだったから、一郎は台所の洗い桶に水を張って、
葉子のところに持って行った。
一郎が葉子の手を−−初めて女性の手を−−持ち上げて桶から洗い桶に移し替えると、さっきのように赤く一気に染まるようなことは無かった。
不審に思い腕を持ち上げると、ぽたぽたとしたたる程度には流れていたが、概ね出血は止まっていた。
「あ、あ……」
一郎は強烈な後悔に襲われた。葉子が死んだからではない、死ぬ瞬間を看取ってやれなかったからだ。
一郎は大きな声で、ごめん、と叫んだ。目からは大粒の涙が落ちていた。
と、葉子が一言だけ、声と言うにはあまりに弱々しい言葉を発した。

「ありがとね」